「東日本大震災から142日後の被災地」
東日本大震災において、被災に会われた方々に謹んでお見舞いもう押し上げますとともに、被災地が一日も早く復興することを、お見舞い申し上げます。
東京から高速道路を走り、7月30日の夕方、仙台新港の近くに着いた。
道路が地震で歪んでいた。
地震の大きさを実感し、衝撃を受け、曲がったガードレールなどを撮った。
でも、その写真はここにはない。
それ以上の光景が、その後に待っていたから。
海に近付くと、視界が開けた。
あるはずの家、建物がない。
がれきが片付けられ、家の基礎しかなく、ひと気のないガランとした殺風景な場所。
もうすぐ震災から5カ月というのに、いまだに、片付けられていない場所もある。
爆弾が落ちた後のような、という表現がそのまま目の前にある。
戦争を知らない僕には、見たことのない光景だった。
陽が落ちて、夕飯を食べようと思った。
仙台に来たら、名物の牛タン、と思っていたがそんな気分になれない。
被災後に作り直した定食屋を見つけたので、そこで震災特別号の雑誌を見ながら定食をいただく。
どこかビジネスホテルにでも泊まろうか、と電話をかけるも、20件以上電話しても、満室の返事。
後で聞いたが、ボランティアで一杯なのだという。
銭湯で風呂に入り、そこの駐車場に停めた車で寝ていると、朝4時ころ震度4の地震で起こされる。
福島では震度5弱とラジオでいっている。
いまだに、終わっていないのだと感じる。
日の出前から動き出すつもりだったので、そのまま車を走らせ石巻へ。
港の倉庫は壊滅状態、船はありえない場所に乗りあげ、異臭も漂う。
復興も始まっているが、まだ、この状態なのか、と驚かされる。
松島、女川と北へリアス式海岸線を走ると、小さい港もかなりやられている。
家の物を捜索している人もいまだにいる。バスも建物に乗り上げている。
TVで見た「おかあさーん」と叫ぶ少女を、ふと思い出し涙が出た。
気仙沼、釜石まで行こうと思うも、遠すぎて時間がない。
今日中に福島まで行かなければいけない。
5年ほど前に日本一周したときの道をたどり、福島に向かう。
線路は跡かたもなく、松林がなくなっているので見えるはずのない海が見える。
漁船が1キロ以上内陸の畑に横たわっている。
以前宿泊した北泉というキャンプ場は、土がえぐられ水が溜まっている。
頭が痛くなってきた。
日が暮れてから、海から離れた福島市内の友人と落ち合う。
奥さん子供は、横浜に避難していていない。
福島市内より山側とはいえ、放射線が強いらしい。
ガイガーカウンターというのをはじめて見せてもらうと、高い数値がでている。
これを買ってから2か月で1ミリシーベルトすでに被ばくしているという。
未婚の女性は、戸籍の住所を福島から移したがっているという。
未来の結婚のときに、差別されることが怖いからだと言う。
「どんなに研究者の会に参加しても、未来が見えない。
でも、自分達はここでやっていくしかない」と言っていた。
福島は大変なことになっている、と実感。
僕は、ほぼ丸一日の撮影で、400枚ほどの写真を撮った。
でも、人がいるとカメラを隠している自分がいた。
誰かの壊れた家を撮ったり、壊れた車を撮ったり、打ち上げられた漁船を撮ったりすることが、
失礼な気がしてならなかった。
これが、もし震災直後だったら、1枚も写真を撮れなかったかもしれないとも思った。
今も、無くなっている人がいるのではないかと思える光景が続いていたから。
僕は被災者の人に話しかけることすらできなかった。
それに、ボランティアをせずに帰って来た。
ただ、僕にできることは、今も終わっていない震災の現実を多くの人に伝えること。
僕の写真は、タテ位置が多い、と言われたことがある。
そう言われて見ると、その通り、タテが多い。
それは、空を多く入れたい、という想いがあるからだと自分なりに思った。
でも、今回撮影した写真は、ヨコ位置がほとんどだった。
それは、被災した光景が広範囲に渡っているから、だと思う。
1日では車で走りきれない被災地。
どれだけ多くの人が、被災されているのだろう。
いまだに、放射能の恐怖にさらされているのだろう。
この撮影記で思うことが2つあります。
1、まだまだ被災地は被災地であること。だから遠い種子島からでも、今も何か出来ることがあること。
2、この震災の教訓から、種子島でも津波対策・避難訓練を行うべき、ということ。
もうすぐ5カ月を迎える被災地に 復興のひまわりが咲いていた。